矢上みらいまちづくり協議会
長崎街道歴史浪漫のまち
わたしたちの町「やがみ」
ふるくから長崎と諫早を結ぶ長崎街道の宿場町として栄えてきた矢上地区。
番所橋の辺りには江戸時代番所があり、天領である矢上への訪問者を厳しチェックしていた。
矢上小学校前には本陣と脇本陣の説明板があり、当時の様子を知ることができる。
現在の長崎自動車学校の辺りは当時本陣として大名や幕府関係者の宿泊所や休憩所として使用されていた。
小学校辺りは脇本陣として兵士などの宿泊施設であった。
その奥には大庄屋が建っており現在の矢上小学校となる
また、諫早領役屋敷跡や小学校前の通りの恵比須様など町のあちらこちらで歴史を感じることができる。
ふるくから長崎と諫早を結ぶ長崎街道の宿場町として栄えてきた矢上地区。
番所橋の辺りには江戸時代番所があり、天領である矢上への訪問者を厳しチェックしていた。
矢上小学校前には本陣と脇本陣の説明板があり、当時の様子を知ることができる。
現在の長崎自動車学校の辺りは当時本陣として大名や幕府関係者の宿泊所や休憩所として使用されていた。
小学校辺りは脇本陣として兵士などの宿泊施設であった。
その奥には大庄屋が建っており現在の矢上小学校となる
また、諫早領役屋敷跡や小学校前の通りの恵比須様など町のあちらこちらで歴史を感じることができる。
矢上の歴史
Council Member Organizations
本地区は市の東部に位置し、諌早市に隣接しており、南側は橘湾に面しています。
八郎側を中心に南北に長く、東西に短い長方形の平地を周囲の丘陵地が取り囲んでいます。
昭和30年に矢上村、戸石村、古賀村が合併し、東長崎町となり、昭和38年に市域に編入されました。
江戸時代には、長崎街道二十五宿のひとつとして矢上宿が置かれ、長崎の表玄関としての役割を果たしてきました。
昭和50年に長崎市中央卸売市場が開設し、昭和51年に長崎卸団地の造成が完了、昭和59年に長崎花市場が開設しました。
昭和57年の長崎大水害では、山崩れ、土石流、また八郎側の氾濫による浸水など大きな被害を受けました。
八郎側を中心に南北に長く、東西に短い長方形の平地を周囲の丘陵地が取り囲んでいます。
昭和30年に矢上村、戸石村、古賀村が合併し、東長崎町となり、昭和38年に市域に編入されました。
江戸時代には、長崎街道二十五宿のひとつとして矢上宿が置かれ、長崎の表玄関としての役割を果たしてきました。
昭和50年に長崎市中央卸売市場が開設し、昭和51年に長崎卸団地の造成が完了、昭和59年に長崎花市場が開設しました。
昭和57年の長崎大水害では、山崩れ、土石流、また八郎側の氾濫による浸水など大きな被害を受けました。
「矢上八幡神社」と「八郎川」の由来
History of Yagami
長崎の東部 諫早市との境に栄えたのが「矢上宿」
平安時代末期、弓の名手であった「源 八郎 為朝」が、この川にかかる橋の上から八幡神社にある大楠(距離約800m)を的に矢を射たという。
そこから、八郎川、八郎橋、八郎岳とついたといわれている。
この伝説の大楠が残るのが「矢上八幡神社」
石段の上にある2本の楠木の南側は最高幹囲5.3m、北側は10.15mと 県下有数の巨木(市指定天然記念物)
長崎街道と島原街道が合流する旧矢上村は佐賀鍋島藩の家老諌早氏の知行地で、長崎代官支配地と境界を接しており「番所」も置かれていた。
平安時代末期、弓の名手であった「源 八郎 為朝」が、この川にかかる橋の上から八幡神社にある大楠(距離約800m)を的に矢を射たという。
そこから、八郎川、八郎橋、八郎岳とついたといわれている。
この伝説の大楠が残るのが「矢上八幡神社」
石段の上にある2本の楠木の南側は最高幹囲5.3m、北側は10.15mと 県下有数の巨木(市指定天然記念物)
長崎街道と島原街道が合流する旧矢上村は佐賀鍋島藩の家老諌早氏の知行地で、長崎代官支配地と境界を接しており「番所」も置かれていた。